野村進流の現代論/天才たち
天才たち
野村進
孫正義 (社長)
小川直也 (格闘家)
羽生義治 (棋士)
市川笑也 (歌舞伎)
レイチェル・スワンガー(記者)
佐渡裕 (指揮者)
今枝弘一(カメラマン)
松尾貴史 (タレント)
武豊 (旗手)
高橋ナオト (ボクサー)
と、(当時1990年代)20代のライターが注目した人物のルポ。
今見れば半分ぐらいはあまりに有名で退屈な人選で、残り半分は若干的外れな感じは否めませんが、それでも野村進流の丁寧な仕事で興味深いものが見えてきます。
あとがきにかいてあるのですが、この人選で特徴的なのが、皆それなりの「天才」なのですが、そこに今までの「天才」のカラーが見えないこと。
たとえばオーラだったり、理解できない行動だったり、そういったものがメインになっていないんですね。
孫正義、小川直也、羽生義治、武豊、と比較的テレビなんかで見たことがあるこの面子を並べられて気が付くのは、その偉業の対する個性の凡庸性です。
なんでしょう、そのわけは。
うーん、きっとそれはその世代の平準化と「カリスマ」を作らせない情報の氾濫のせいでしょうか。
「天才」とレッテルを貼られることで、努力や苦労を当然のものとみなされることへの本人の反発でしょうか。
この部分は、まだ良く分かりません。
内容的には、佐渡裕、今枝弘一あたりは目新しくて面白かったです。
佐渡のブザンソン・コンクール 前のエピソード
・・・食べたときに残ったパンやチーズも壁に叩きつけた。トイレも流さなかった。水が飲みたいと思えば1リットル近く流し込んだしし空腹を感じたらステーキを3キロは食べられるというその食欲を満たした。
そうして、やりたい放題をしたのち、佐渡はようやく、これから記憶しなければならない膨大な量の課題曲の楽譜を開いた。それまでは楽譜と直面することができなかったのだ。
は、なかなか興味深いものでした。
今枝弘一は天安門広場のスクープ写真で有名になり、その真偽も含め毀誉褒貶の激しい人ですが、
おそらく彼のような日本人は、戦争直後の“焼跡闇市”の時代には大勢いたのではないだろうか。
自分が生き抜くためには、なりふりかまわない。他人は信用せず、基本的に人間関係を“ギブ・アンド・テイク”として見ている。動物的なカンだけを頼りに生きているようだが、頭の中では案外綿密な計算が働いているのかもしれない。
という人物評で、彼の人物像がつかめました。彼の評価の+も-もおそらく正しいのでしょう。
武豊の平板なコメントも「手綱一本にかかっている重さを、彼は知っているからだと思いますね」と言うコメントで本人のコメントではなく、他の人のコメントで人物像を固めていく手法に切り替えていくあたりは、武豊、野村進の両方の呼吸が聞こえるようで、なかなかおもしろかったですね。でも記事はやっぱり平板でしたが。
総じて「天才たち」というほど派手な内容になっていません。オーソドックスに丁寧に掘り下げているものの、「天才」にはさほどフォーカスせずにむしろ普通さを共通点を探しているようにも見えますが、そこの連環が強くはありません。たぶん画面には入っているけどまだフォーカスされていない、というところでしょうか。
新しい天才達の共通点で説明される現代論がフォーカスされれば、また野村進の本を読みたいと思います。