できれば本に埋もれて眠りたい -2ページ目

野村進流の現代論/天才たち

天才たち

野村進





孫正義 (社長)

小川直也 (格闘家)

羽生義治 (棋士)

市川笑也 (歌舞伎)

レイチェル・スワンガー(記者)

佐渡裕 (指揮者)

今枝弘一(カメラマン)

松尾貴史 (タレント)

武豊 (旗手)

高橋ナオト (ボクサー)


と、(当時1990年代)20代のライターが注目した人物のルポ。



今見れば半分ぐらいはあまりに有名で退屈な人選で、残り半分は若干的外れな感じは否めませんが、それでも野村進流の丁寧な仕事で興味深いものが見えてきます。



あとがきにかいてあるのですが、この人選で特徴的なのが、皆それなりの「天才」なのですが、そこに今までの「天才」のカラーが見えないこと。



たとえばオーラだったり、理解できない行動だったり、そういったものがメインになっていないんですね。

孫正義、小川直也、羽生義治、武豊、と比較的テレビなんかで見たことがあるこの面子を並べられて気が付くのは、その偉業の対する個性の凡庸性です。



なんでしょう、そのわけは。

うーん、きっとそれはその世代の平準化と「カリスマ」を作らせない情報の氾濫のせいでしょうか。

「天才」とレッテルを貼られることで、努力や苦労を当然のものとみなされることへの本人の反発でしょうか。

この部分は、まだ良く分かりません。



内容的には、佐渡裕、今枝弘一あたりは目新しくて面白かったです。

佐渡のブザンソン・コンクール 前のエピソード


・・・食べたときに残ったパンやチーズも壁に叩きつけた。トイレも流さなかった。水が飲みたいと思えば1リットル近く流し込んだしし空腹を感じたらステーキを3キロは食べられるというその食欲を満たした。

そうして、やりたい放題をしたのち、佐渡はようやく、これから記憶しなければならない膨大な量の課題曲の楽譜を開いた。それまでは楽譜と直面することができなかったのだ。


は、なかなか興味深いものでした。



今枝弘一は天安門広場のスクープ写真で有名になり、その真偽も含め毀誉褒貶の激しい人ですが、


おそらく彼のような日本人は、戦争直後の“焼跡闇市”の時代には大勢いたのではないだろうか。

自分が生き抜くためには、なりふりかまわない。他人は信用せず、基本的に人間関係を“ギブ・アンド・テイク”として見ている。動物的なカンだけを頼りに生きているようだが、頭の中では案外綿密な計算が働いているのかもしれない


という人物評で、彼の人物像がつかめました。彼の評価の+も-もおそらく正しいのでしょう。



武豊の平板なコメントも「手綱一本にかかっている重さを、彼は知っているからだと思いますね」と言うコメントで本人のコメントではなく、他の人のコメントで人物像を固めていく手法に切り替えていくあたりは、武豊、野村進の両方の呼吸が聞こえるようで、なかなかおもしろかったですね。でも記事はやっぱり平板でしたが。



総じて「天才たち」というほど派手な内容になっていません。オーソドックスに丁寧に掘り下げているものの、「天才」にはさほどフォーカスせずにむしろ普通さを共通点を探しているようにも見えますが、そこの連環が強くはありません。たぶん画面には入っているけどまだフォーカスされていない、というところでしょうか。


新しい天才達の共通点で説明される現代論がフォーカスされれば、また野村進の本を読みたいと思います。

家の中で鷺を放し飼いしていました/野の鳥は野に

野の鳥は野に

小林照幸


野の鳥は野に―評伝・中西悟堂 (新潮選書)/小林 照幸
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小林照幸の昭和シリーズ(と勝手に命名)の一つ。

日本野鳥の会 の創始者で、屋上樹林、カスミ網の禁止、空気銃の追放、鳥獣保護法の基礎、バードアイランドの設置など、戦前から自然保護活動を行っていた中西悟堂 の評伝。



10歳で秩父の山深い仏門をくぐり、26歳で処女詩集を刊行して、北原白秋室生犀星 に絶賛を受けます。

30歳から約三年半、木食生活に入り、思索を深めながら、自然観察に傾注。

しかし社会からの逃避だということに思い至り、社会復帰。



また執筆活動に入りますが、鳥の放し飼いなどで注目が集まり始め、あるとき鳥類学者の内田清之助や柳田國男 から、鳥の啓蒙活動のため、鳥専門の雑誌を作らないかと話を持ちかけられます。

本人は小説の執筆に専念したかったらしいですが、結局説得され「日本野鳥の会」を設立して機関紙「野鳥」を創刊。富士山の須走で行った最初の探鳥会には、内田清之助や柳田國男はもちろん、北原白秋、金田一京助春彦若山牧水窪田空穂 なども参加したそうです。



そのあとは、カスミ網の禁止の政治的活動(昭和30年頃から終生続くことになる)、環境保護の発言(昭和30年代から『開発しないことが開発となる』といったような発言をつづけている)など面白いところは色々ありますが、細かい注目ポイントを2点だけご紹介。



一つは終生つけていた日記。毎日書いていたそうで、「中西悟堂用箋」とある私箋に「日記」「書信」「受贈」「生活表・メモ」と各月ごとに分け、さらに年度末には「執筆と著作」「放送と講演」「読書目録」「身辺人事」などもまとめてあるそうです。面白そうともやってみたいとも思いますが、家族の「おそらく毎日3時間ほどしか寝ていなかったんではないでしょうか」という発言や、自身の「『夜が勝手に明けたんだ』ともいっていました」との発言を読み断念。



それと心血と金をつぎ込んだ「日本野鳥の会」ですが、後年は本人の意思とは外れていったようです。

鳥と自然を見る思想が鳥だけに偏り始めたり、安易な会員獲得のため紅白歌合戦の赤白の数を数えたりと、当初の思想から外れていくことにに反対をしていると、現役職員から「院政」のように思われ、総会で退陣騒ぎが持ち上がり、最後は自分の意志で退会したなど、やはり人間生きているとなかなか思想だけではうまくいかないものだなぁと思いました。



それ以外にも、家での鳥の放し飼いについて「フンで汚れる」という記者に「乾けば一拭きで取れるし、フンで体調が分かる」と応えていて、愛のなせる技だな、と感じました。


これだけの偉人を今の今までまったく知らなかったので、小林照幸にいい人教えてもらったと思ったのですが、もうちょっと思想面で掘り下げがほしかったですね。選書だからしょうがないのかもしれませんが、日記を前に「その異常とも思える詳細さは、私を痛く疲労させた」とあったのは少し笑えました。

メキシコって/平原の町

平原の町

コーマック・マッカーシー






<国境3部作>の3冊目。

アメリカ南部でカウボーイをやっている主人公が、メキシコの娼婦に恋をする話です。


すでに、「すべての美しい馬 」「越境 」を読まれている方はその世界観は同じです。


美しくも荒涼としたアメリカ南部で、ハードながらも充実した生活を送っているカウボーイ。

気晴らしにでかけたメキシコの町で、ほんの一瞬、見かけた若いメキシコの女性に惹かれてしまいます。

しかし相手は娼婦。取り仕切っているのはメキシコのごろつきで、そこには違ったルールが存在します。


違った世界であることにも恐れず、まっとうに女性を求めようとしますが、違った世界では受け入れられません。

しかしそれでも押し通していくのが、このシリーズの主人公達。

同僚から反対されながらも理解を得、廃屋を改修し迎えいれる準備を整え、いよいよその日がやってきます。

そして・・・


そして読者サービスでしょうか。「すべての美しい馬」と「越境」の主人公が出てきます。

「馬」の方が主人公で、「越境」の方が相棒役。

こんな文学的でありながらもハードボイルドな作品で、よもやシリーズとして楽しめるとは思いませんでした。

読みやすいしテーマが恋愛でとっつきやすいのに、前二作を読んでからのほうが楽しめるというジレンマ。
もうだいたいコツはつかんで展開が読めるのでエンターテイメントとして楽しむことができました。

やっぱり、そこ、行く、みたいな。

それからこの作家、色々読みどころはありますが、短い会話分が結構ぐっときますね。



これで国境3部作にはけりをつけたので、評判の「血と暴力の国」「ザ・ロード」にいけます。

しかしこのタイトル、コーマック・マッカーシーじゃないと手にとらないだろうなぁ。


血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)/コーマック・マッカーシー
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ザ・ロード/コーマック・マッカーシー
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黄金の時間/越境

越境

コーマック・マッカーシー


越境 (ハヤカワepi文庫)/コーマック・マッカーシー
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いい本を読んでいるときというのは、読んでいるときはもちろん、読んでいないときさえ「あぁ、今度時間が空いたらあの本が読めるんだ」と幸せになります。

久しぶりにそう感じた本でした。



コーマック・マッカーシーの<国境三部作>の2冊目。


あらすじは、

アメリカ南部で牛を飼って暮らしている家族。

あるときメキシコからやってきた狼が、近くの牧場の牛を狩る。

主人公の少年が、ワナをかけ、何度も失敗したあげくやっとのことで、狼を捕らえる。

しかし、その狼をメキシコに放つことに決め、少年は1人で狼とともにメキシコへ越境する。

そして少年は3度越境することとなる。



すべての美しい馬 」でもそうでしたが、初めは現代日本小説とのあまりの距離感に、読み方が分からなくなってしまいます。

しかしあとがきにもあるように、これは人と人との関係を描く心理小説でな、く『白鯨』のような<世界>と人間の関係を描いた小説、と言われれば、至極納得です。



家族や友人への不器用な愛。

敵対する人物との硬質な会話。

主人公の直情。



そういったものにたいする、アメリカ南部の荒野の美しさと激しさ。

狼に心奪われる理由なき何か。メキシコの摂理異なる世界。

そして世界全体を覆う理不尽と哀切。



そういったものを心理描写を交えずに、広大で長大な作品として描いています。




個人的には主人公の意思の通し方が読みどころでした。

理由の説明できないものにも何の躊躇もなく行動でき、それに対して淡々と責任をとっていく様は、そういう生き方もあるのかと改めて気づかされました。



3部作「すべての美しい馬 」「越境」「平原の町」と読みましたが、「越境」が一番面白かったですね。

今年はこれが読めてよかった、と言える1冊になりました。


政治家は政治家、市民は市民/政治家やめます

政治家やめます。

小林照幸

政治家やめます。―ある自民党代議士の十年間/小林 照幸
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ひいきの作家小林照幸 の本でも読もうと思って物色。

政治の季節なので「政治家やめます」読んでみました。



タイトルどおり、衆議院議員を10年務め「向いていないからやめます」といって本当にやめた久野統一郎 の話です。



親が国会議員で、ある正月はじめて父と一緒に竹下登を地元名古屋に迎え、「君、やる気あるのか」と問われ思わず「どうぞ、よろしくお願いいたします」と口にしたのがきっかけで始まった2世議員生活。


「普通の人」の感覚で政治を良くする、とはいったものの政治家は普通の人の神経では務まらないようです。



誰彼なしに頭を下げ、自分に届く贈り物はすべて後援者に渡し、正月は後援者のために炊き出し。これらはもちろん選挙のため。


自分の政策も、自民党の方針が変わるたびに変わり、筋も何もない。


むすっとして選挙前に金を届ける影の小ボス小沢一郎に、一旦面倒を見るといったら必ず応援演説に来てくれる橋本龍太郎。


義理も人情もありながら、実弾も当然必要となる選挙は「普通の感覚」ではそう長くは続くないことが良く分かりました。


結局一市民が、なれるからといって国会議員になってはみたものの、やりたい政策もなく、かといって人一倍の欲もなく、ただいわれるがままに議員をやっているんじゃ、勤まるような職ではないようです。



議員になっていたのは1990-2000年、関係あった首相は竹下登から小渕恵三までと、政治的には面白い時期ですが、海千山千の兵に交じって「普通の人」には、面白いというより困難。


結局ネックになったのは、生来真面目で義理堅いのに、今までこき下ろしていた公明党と連立与党体制を組もうとする辺りで自分なりの納得ができずに限界がきたようです。


志もなく、欲もなく政治家をやった場合、純粋に選挙活動のためだけに政治をやるとどうなるか、というのが良く分かりました。

巻末の写真をみても加藤紘一 細くしてより小市民にした感じです。

こんな人なら、ずっと道路公団に勤めていたほうがよかったね、と思いました。




で、今回の選挙にこの教訓を生かすと


 ・単に「普通」を強調する人は信用しない

 ・政治家に必要な信念なり、タフさを兼ね備えて「普通」を強調するなら、投票する

 ・でもそんな人はなかなかいない


と、思った次第です。


さ、いよいよ明日は衆議院選挙です。

民主党圧勝との予測ですが、小沢一郎は「予算を3回は作りたい」といっているそうです。

リアルで頼もしい。細川政権の教訓が生きていますね。

結果も楽しみですが、その後のほうがもっと楽しみです。




そうそう、本としての面白さは、「フィラリア 」「死の貝 」のほうがずっと面白かったです。

旅する葦/ソングライン

ソングライン

ブルース・チャトウィン


ソングライン (series on the move) (series on the move)/ブルース・チャトウィン
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ブルース・チャトウィンは『パタゴニア 』につづき2作目。

その特徴である、小さなエピソードを積み重ねて大きな物語にしていく手法は、『パタゴニア』では時間的・空間的寂寥感を表すのに成功し、さらに『ソングライン』では、核となる「人はなぜ旅をするのか」と言う問いと、アボリジニに伝わる土地の固有の歌を追っていくことで、より大きくしっかりとした物語になっています。



人はなぜ旅をするか。

自身の放浪癖から湧き上がる問いに、より根源的な答えを探すため、チャトウィンはアボリジニのソングラインの伝統を探ります。

ソングラインとは、アボリジニに古来から伝わってきた歌の地図ともいうべきものです。

採集民族として旅することが生活の一部であったアボリジニは、多数に分かれたそれぞれの種族・家族に自分たちの歌の地図があり、それにそってオーストラリア全土を旅し、そしてその道は所有するのではなく、共有しているのです。



それにしても、「ソングライン」を読んでいると、帰ってこれなくなる性質の旅にどっぷりと浸かっているような気になります。様々な歌を持ち、選ばれた人にのみ歌を継承してくアボリニジニ達との旅。オーストアラリアの奥地に住む、個性が生活を凌駕してしまった白人達。そんな人々から様々な話や生活を採取し、また自分が見て読んで話して集めた知識も収集していくチャトウィンの旅は、オリジナルでありながら臨場感たっぷりにオーストラリア奥地での生活を伝えてくれます。そして、その傾倒ぶり、省みない姿勢が、一つの地に安住しない圧倒的な放浪感を醸し出しています。


少し長いですが「パタゴニアよりも読みやすいですし、チャトウィンの本を読んでみたい方にはオススメです。



最後に解説を読んで気づいたのですが、この作品


フィクション


なんですね。

まぁ、過去にそんな類の本を読んだのでそれほど驚きませんでしたが、まぁ残念といえば残念。分かるといえば分かるという感じです。





それからチャトウィンといえばノートが有名ですよね。


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MOLESKINE(モレスキン)メモポケット ラージ13×21cm
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最初のページに「拾ってくれた方には__円差し上げます」と書いてあり、はじめは違和感が会ったのですが、チャトウィンの本を読んでいくと「採集」こそ彼の本領とするところで、ノートの重要性が分かりました。このノートを何十冊も持って旅して書いていたようです。


あ、それから今見たら『パタゴニア』ずいぶん中古の値段 が高くなっていますね。

そんなに古くもないのに。驚きました。


全能の神はいない/なぜ私だけが苦しむのか

なぜ私だけが苦しむのか-現代のヨブ記-

H・S・クシュナー


なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)/H.S. クシュナー
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ラビ(ユダヤ教の教師)の書いた神についての本です。

端的に、何がかいてあったというと(個人的に)

「病気を治したり、台風をそらしたり、試験に合格させてくれたりする、全能の神はいない」

ということです。


この作者は聖書の『ヨブ記』に注目します。

ヨブ記は簡単に言ってしまうと、神に忠実につかえていたヨブが、突然多くの災難に教われ、神に対する思いを問われ、最後に神がわかりづらい回答をする、という話です。


古典的には「神への忠誠」がヨブ記の主題ですが、この作者は「なぜ正しい人が不幸にみまわれるか」と読み替えます。


そして、ヨブ記での神とヨブの命題を整理します。


 A、神は全能であり、世界で生じるすべての出来事は神の意志による。神の意思に反しては、なにごとも起こりえない。


 B、神は正義であり公平であって、人間それぞれにふさわしいものを与える。したがって、善き人は栄え、悪しき者は処罰される。


 C、ヨブは正しい人である。


ヨブが健康で幸せのうちは3つとも信じることができますが、家が破壊され、家畜が殺され、子供も殺され、自分の健康を害している状態では、どれか一つを否定して、はじめて、残り二つを正しいと主張できる状態になります。


通常の答えは、C、当事者が「正しい人」ではないことを問題にします。


しかしヨブにとっては、本人が精一杯やっている状況で、「正しい人ではない」とされるならば、そんな神は彼にとってはプラスなのでしょうか。ヨブにとってはB、神は「善」ではなくなるのです。


そして作者は、この物語に、A、神は全能ではない、ということを示唆します。



これは個人的には結構斬新でした。

一般的日本人にとっては当たり前のことですが、あえて全能の神がいないことについて書かれると、つい「仕事が上手くいきますように」「子供の咳が直りますように」「テスト合格しますように」とつい祈ってしまったあとに「違う違う、そんなこと祈ったって、意味ないんだ」と思うようになりました。そうするとなんだか不用意に裸になった気分で、なんとなく体の周りがスウスウして少し不安になります。


ちなみにこの作者はこの結論に至るのに、信者の様々な不幸を見るとともに、自らの子供を早老病で亡くしています。

では、神は、祈りは、なにをするか。

この作者は以下のように語っています。


「神は実在しており、宗教家達がでっちあげた空想ではないことを、絶えず私に確信させてくれる事実は、力や希望や勇気を求めて祈る人たちが、祈る前には持ち合わせていなかったそれらのものを、ほとんど例外なく得ているということなのです」


先ほどの結論にくらべると、こちらは意外にしょっぱい。この結論では、 神は、自助のためのカウンセラーに近い感じです。


でも、そういった「神」なら信じられます。

常々感じていた、宗教、神の必要性はそういった自助のための「装置」だったんではないでしょうか。

それが時代によっては「全知全能絶対の神」にしたてられたりして本質がぶれたり、神の代わりに心理学や精神分析が多くの人々を支えるようになったり、「スピリチュアル」的なものに「鰯の頭も信心から」である程度の効果があったりしているのではないでしょうか。


自助を支えるための何か。

それが「神」に一番近いところなのでしょうか。



この本、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる の「この本がスゴい2008 」で知りました。

Dainさんのオススメがないとこんな本読みません。

ご紹介ありがとうございました。

作家と博物学者と医者と薬屋/コンゴ・ジャーニー

コンゴ・ジャーニー

レドモンド・オハンロン



コンゴ・ジャーニー〈上〉/レドモンド オハンロン
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コンゴ・ジャーニー〈下〉/レドモンド オハンロン
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Pennant-winged Nightjar


ようはコンゴの旅行記なんですが、作者のオハンロンが何しに行っているかといえば「モケーレ・ムベンベ 」を探しに行っているんですね。

では、矢追純一 かというと、そういうわけではありません。むしろ「モケーレ・ムベンベ」は口実で、実際はなんだか面白いところに行ってみたい、そういうものみたいです。最初の作品はかつての首狩族の地ボルネオにボルネオサイ を見に行く「ボルネオの奥地へ」ですし、その次はアマゾンに地球上でもっとも凶暴な民族ヤマノミ族 に会いにいく「In The Trouble Again」(未訳)という作品です。



で、今回はアフリカのコンゴなんですが、まぁ厄介な土地でして。

まず保護区域に入るので政府の許可が必要で、それには人脈と賄賂が必要。

やっとこ、許可を得てまずは巨大な船でコンゴ川を上るのですが、ここはすでにアフリカ。途中、小船に衝突して、小船が転覆して、乗っていた人が他の地元の船に救助されるのですが、乗っていた少年が川に投げ出され、そのまま視界から消えてしまう。オロンハン以外誰も気づかないまま。

途上船には数千人が同乗しており、その途中、病気で子供が死んでしまう。実にあっけなく人が死んでいきます。このあたりで、良く知っている旅行記とは違うことが分かってくるんですね。



さてこの本の読みどころは色々あると思うのですが、個人的には博物学的な楽しみ。道中目に付く動物植物病気や人々の風習に、現地の生物学者で好色なガイド、マルセランや、途中まで一緒に旅する動物行動学の博士であるラリー、そしてオハンロン自体も生物学には詳しいので、様々な説明がはいります。



たとえばオハンロンが気になった木についてマルセランに聞くと


「森の木を全部知っているのは、マイク・フェイとピグミーだけよ。だが、とりあえず、これはアブラヤシだ。」「収入の源泉だ。これなしでは生活が成り立たない。果肉からはオレンジ色の油、種からはカーネルオイルが取れる。ま、上流に行けば全部見られる。油は料理に使うし、もちろん、石鹸やマーガリンの材料として白人に売る」(にやりと笑った)「樹液も集める。幹の成長に点の近くか、根元の辺りなたで傷つけて・・・」「あとはバケツかヒョウタンをぶら下げておけば、ヤシ酒のできあがりだ。だがな枝分かれしているアブラヤシがあったら、手を触れるなよ。見向きもするな。呪い師の木だからな」

「カンチウムだ」とマルセランは言った。「これにも触るな。こいつの皮にはアリがうようよしていてな、触ると噛むぞ。それに花が咲くと、死人のようなひどい臭いがする。受粉の媒介をするのはハエだ。ハエが花粉を運ぶ。ま、そういう木だが、なくてはならない重要な木でもある。なにしろ、占い師がこの木から呪物を作るからな。世襲村長が象徴として持つ杖も、この木から作る」


とこんな感じで、植物動物の博物学的知識が満載で、楽しめます。


それから、途中で見る病人(マラリア、イチゴ腫などもろもろ)にバンバン薬をあげていくのがいいですね。自身も病におびえながら病や怪我をみたら抗生物質やらなんやらを惜しみなく与えていきます。病気の知識とそれに対する優しさも、他の探検記にはあまり見られないものでした。


そしていよいよ都市を離れ熱帯雨林の中に入っていくとそこは力と呪術の世界。

一応の目的である「ムケーレ・ムベンベ」のいるテレ湖は、ある村の聖地で、その村民にマルセランはうらまれています。隙があらば本当に殺そうとしてる村民を避けながらなんとテレ湖に「向かわなければいけません。

そして同行している現地人から、呪い師・お守り・噂・妖怪?サマレの話を聞かされていくうちに、アフリカの「呪い」が日常として理解できるようになってきます。


ピグミーにも会い、ワニも捕まえ、幻想もみて、ゴリラの赤ちゃんを預かって、といろいろ話題にも事欠かず、知的なラリーやマルセランとの会話も楽しめます。


さて、それで結局、雰囲気たっぷりのテレ湖にいって、「ムケーレ・ムベンベ」は見つけることは、できたのでしょうか。

私は読みながらあまりにも濃い状況に「もう見つからなくてもいいよ」と思いましたが。



最後に気が付いた最大の驚きは、この旅行はオロンハンの私費で言っているということですね。ガイドに金をせびられて「もう銀行口座にはお金はない」と答えるところで気が付きました。いやー、ひも付きじゃないなんて、どちらかといえば狂気に近い衝動ですね、これは。


ちなみに最新作は借金を抱えた船長のトロール船に乗り込むのですが、これも楽しみ。日本語訳はでるのでしょうか。



ちなみにこの本はわたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる の「この本がスゴい2008 」で知りました。

Dainさん、ありがとうございました。



父性な女と母性な男/ばかもの

ばかもの
絲山 秋子

ばかもの/絲山 秋子
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最近の作品は個人的にはがっかりなものが多かったのですが、きましたねいい奴が。

個人的には絲山秋子の最高傑作だと思っています。


作品は、ハードなセックス描写から、ひどくぶっきらぼうでなにを考えているか分からない女に、男がひどいふられ方するところで始まります。

男はまだ大学生で、なんとなく大学を卒業して就職。どこにでもいるような男なんですが、流れるように酒を飲み始め、アル中になっていきます。

アル中の、ああもうだめだなこりゃ、という寸前まで行って、偶然、別れた女の母のやっている店を訪れ、かつての女の詳細を聞きます。

その辺りをきっかけとして、アル中を直す決心をして、専門病院に入り、治療したあと、女に会いに行きます。

そして・・・。

中毒っていうのは、結局自分を律しきれないで、何かにおぼれていくことだと思っています。それが薬であろうがアルコールであろうがチョコレートであろうが同じです。この主人公の男も、基本的には何にも問題のない男だとは思うのですが、自分を律する、という点で若干弱い。その部分を上手くコントロールできないと、沼の中心を目指して歩いていくように、どんどん身動きができなくなっていきます。


そして今まで絲山秋子がよく書いていた人物像は、自分や周りのゆるんだ状況を許せない人、その人のなれの果て、です。気性は激しくも気は周り、行動力もある、でも律しすぎるんですね。それで色々なものが許せなくなり、生きづらくなる。


これは何かというと、母性と父性なんだと気がつきました。

優しさと厳しさ。どちらも度が過ぎれば毒ですが、足りなくても問題がでてきます。

そうしてこの二人は最初の出会いのときは、セックスが中心だったものの、じつはお互いに上手く相手を補い合える仲だったんですね。でもそれに気づかず分かれてしまい、お互いの凸と凹はより深くなっていってしまう。

そして再会したときは、お互いに深くなった凸凹をやっぱり補い合える奇跡が起こるんですね。


男と女が出会ってしばらくして、あるきっかけで男がまた酒を飲もうとすると、女から瞬間的に手が出るんですね。

この場面でまさに他人も自分も傷つけるお互いの凸凹が合わさった場面ではないかな、と感じた名場面でした。


絲山秋子は父性の人。そして母性を上手く書けるようになれば作品に深みが出ます。

これを意識できたのなら、絲山秋子の一つのブレイクスルーになるんではないでしょうか。


**********

読んでいただいているみなさん。

お久しぶりです。

4ヶ月ほど間が空いてしまいました。

なんだか色々な事情がちょっとずつ重なり、ブログの更新ができませんでした。

期待して見ていただいていたら申し訳ございません。



仕事が忙しくなったとか、家に親・兄弟がしばらく泊まっていたとか、色々あるんですがやっぱり一番は、マンネリでしょうか。

なんだか本を読みながら自分の書評が想像でき「書評製造機」になってしまったような気がしてきて、忙しくなったのを機に、なんとなく書くのをやめてみました。


それでも本はもちろん読んでいたのですが、「ばかもの」を読んでいたら、ふと「父性と母性」というキーワードがでてきて、このキーワードで作品の構造が分かりやすく読めるのではないかな、と思いました。


そういうことを思いつくと、ついブログを書きたくなってしまいます。

結局私はマンネリの書評が書きたいのではなく、そういった本を読んで書評+αが書きたいのだな、と自覚した次第です。

毎回とはいいませんが、+αを書いていけたらと思います。

もしよかったら、引き続き読んでやってください。

大丈夫です、意味なんかありません/宿屋めぐり

宿屋めぐり

町田康


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この厚さ(602頁)はいったい・・・、と不安でしたが、手に取ったあとはいい意味でも悪い意味でも予感はあたりました。



刀を帯刀した主人公が旅をしていて、ある寺に入ったところ僧兵に言いがかりをつけられ、なんだか殺してしまい、仲間の僧兵に追われて逃げ出すと湖から湧いて出てきた条虫の中に入ってしまい、その条虫の中でまた異世界が広がり、旅を続ける、という作品です。


条虫。意味がわからないですか。いや、私も分からないです。でもとにかく最初100ページぐらいなんとか読んでみました。

いつもどおり進む町田節と内省と他人への批判が延々と続き、文章、段落ごとの意味はあるのですが通すとその意味が分からない。


一応主人公には主がいて、これが恐ろしい主でとにかく主の命令を聞くことが主人公の第一なのですが、犯罪者に間違われて逃げ出し、いじめっこに会って復讐を果たせず、賭場に行き賭場を荒らし、奇術をやってうけて街を壊し、偽善劇団にちょっかいを出して逃げ出し、おばさんになって・・・、と場面場面で流されていきます。


なんだこのミクロ視点の筋無き思いつきの展開は、と読んでいくといちいちのエピソードの切れ込みの深さに、「そんな筋だの、意味だのいうけど、あんたの今の人生に筋だの意味だのはちゃんとあるの?場面場面の積み重ねで意味なんかないんじゃないの」というのを言外に延々と言われているような気分になっていきます。


ああ、これは町田流の生の羅列なんだと分かると、あとはエピソードをその場その場で楽しんで602頁です。一応最後に総括がありますので最後まで読む意味はありますが、結局は「宿屋めぐり」です。痛い部分を触るのをやめられないように、町田節を楽しむのがこの本の読み方なんではないでしょうか。


町田康の癖になる文章とけれんの下の細やかな洞察力を持ってしてできる、この筋なき小説。いわば極北、一つの達成点ではあるとは思いますが、この先、新作がどんな作品に成っていくか心配です。


あと余談ですが、ブログを書いているうちによしもとばななにその到達点が似ているような気がしてきました。あの卓越した洞察力、表現力、と小説ごとに区別のつかない恋愛のエピソード。各小説ごとに意味があるのではなく、同じことを違う形で表現していく様子は、今回のエピソードの羅列に重なります。ある種の作家の到達点というのは似てくるものなんでしょうか。それともそういうものが小説なんでしょうか。